ペレのフラ

思いっきり、私見です。


ハレ・オハナでお伝えしている古典フラは、ペレとヒイアカの神話にまつわるものが8割です。
簡単な曲は、自然の美しさや、ヒロの素晴らしさを称えるものですが、アドバンスになればなるほど、ペレの曲になっていきます。
カヒコ、特にペレのチャントになると、レッスンに参加出来なくなる人が出てくることから、「フラが人を選ぶ」と言う感覚を持っていますが、決して排除するという事じゃないように思います。
それは、私がペレの前で踊る時に感じることから、そう思うのです。

私も人なので、嫉妬したり怒ったりします。でも、そんなことはおくびにも出しません。そして、良く見せようとか、高評価をもらおうという、人に気に入られたいという欲求も普通に(人並み以上に?)あります。だから、出来ない事を隠して、完璧な人になろうとしています。
ところが、ハレマウマウクレーターの前に立った時、そんな気持ちも全て、ペレがお見通しだ、と感じたのです。
上手く表現出来ませんが、自分が透け透けの存在になって、心が丸見えだ、と、理屈抜きで感じました。
上手く踊ろうとしていることも、ここに立てることをちょっと自慢に思っている事も、これから踊ることに少し不安を持っていることも、神と一体になろうという尊大な気持ちも、ぜーんぶお見通しだと。そして、拒絶するのではなく、ペレはただ、そこにいてみているのです。
この時に、ありのままの自分で踊るしかないと腹をくくりました。
良いも悪いもない、飾らない、一生懸命のすごく不格好な自分だけがありました。
でも、そのおかげで、心に自分という柱が立ったと思います。

格好つけているよね、私って、とか、出来ない事に言い訳しているよね、とか、そういう自分も、ありだと。否定するのではなく、ただ、ペレのように黙ってみていればいい。
そして、いつの日か、ありのままの自分でも、胸を張ってペレの前に立てる生き方をしようと思ったのです。

ペレのフラには、特別な力があるように思います。
自分の中にある、怒りや嫉妬や、ドロドロした感情が創り出すほとばしるようなエネルギーを、フラという踊りで昇華するような、そんな力です。
人なので、本当は隠したいイヤな自分が感じている情動が、ペレの情熱的なキャラクターに象徴されていて、それが響き合うのかも、と。

もちろん、そんな下世話なことを考えないで踊る事も可能でしょう。
もっと違う風に感じて、踊る方が普通なのだろうと思います。
でも、私自身は、自分のイヤな部分、大嫌いな衝動的な部分が、ペレの情熱とリンクしているように感じています。
生徒さんが踊っているのを見ても、正しさに囚われて、本当の自分を隠しているように見える人の踊りは、何にも感じないし、何にも伝わってこないし、同じフラかと思うぐらいつまらないです。技術はなくても、ありのままの人の踊りは、何かが伝わってきます。
それを技術の問題として捉えるのが、生徒さんの立場と分かっていますから、何も言いません。かといって、技術じゃない、心をオープンにしようといっても、なかなか分かることじゃない。
こういうとき、難しいなぁ、と思うし、心が閉じていることを受け入れないってことも、ペレと違うと思うから、ただ、本人が気がつくのを待っています。

もちろん、あけすけに何でも語ることが良いと言うことではないです。でも、自分の心のモヤモヤやドロドロを見たくない人には、ペレの踊りは、ちょっとキツいのかもなぁ、と思うのです。
それが、フラが選ぶという意味の本当のところです。
排除するのではなくて、ただ見ているのです。
ありのままの自分を。それって、すごいことです。
神って、そういう存在なのでしょう。ペレは、きっと見ていると思います。
見られていることに対して、耐えられる人と、耐えられない人。その差があるのだろうと思います。
そして、これは、自分が意識して感じるのではなく、無意識のどこかで感じていて、無意識が状況を作り出し、レッスンに参加出来たり出来なかったりしているのではないか、と思います。
だから、ハレ・オハナでカヒコを踊れる人は、みんな、自分が完璧じゃないことを知っていて、他人に優しいのだろうと思います。



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