学習とは間違ったことから生まれる

だから、堂々と間違えてみよう!

私は、クムKiwalaʻoに、「リツコは注意したことをすぐに直す。それが良いところ」と言われています。


嬉しいなぁ、と思ったのと同時に、あれ?単純に喜んで良いのかな?と思いました。

直すっていうことは、違うところがある訳で、それってつまり、完璧じゃないってこと。ただ、注意していただいたところは、自分が覚えていることと違うので、とても印象に残って、記憶しやすいです。だから、すぐに直せるのかも。

それを、あのときこう言ってたのに、なんて思うと、なかなか修正出来ないのかもですね。フラはアップデートする訳で、アップデートしたら書き換わるプログラムもあって、それは書き換えることなのです。

問答無用。

でも、出来ない人もいるのよね。

私は、自分の記憶力や踊りに、確実だという自信もプライドもない。

だから、あれ?違うの?と思ったところは、直せるのかもしれません。

学習って、あれ?と思ったところから始まるので、間違えるのは悪いことではないのです。間違えちゃいけない、正しくなければならない、と思えば思うほど、学習出来ない。

学習するときには、どうしたら良いのかな?という考えが頭に浮かびます。何かを解決する考え方です。この考え方は、天才を育てます。

ああしなさい、こうしなさいと、子供達の創意工夫の余地を奪えば奪うほど、工夫の出来ないマニュアル子供になります。

このことは、大人もそうです。

マニュアルは、あっても良いけど、個々が工夫できる余地のないマニュアルだと、おんなじ顔したコピー人間になるだけで、個性は潰されます。

フラもそう。ビッチリ決めれば、みんなおんなじに踊れるかもしれないけど、それではマスゲームと同じ。表現の自由は、奪われます。

自由を奪われた状態で起こる間違いは、ただ落ち込むだけですが、自由さのあるところでの間違いは、これは間違い、と自覚し、修正することが出来ます。

自由を奪うのが他人だと思ったら大間違い。自分の思い込み(間違ってはならない)が、もっとも強い束縛です。(経験上)

クムに、すぐ直せるのが良いと言われたこととか、間違わないと間違っていることに気づかないこととか、いろんなことを総合すると、堂々と間違えるのは悪くない、と思うようになりました。

隠しても、バレるって。だったら、「間違えました!」と認める方が楽。

注意されたことは、修正のチャンス。

だから、注意されるのは良いことだ、と思っていれば、何も苦しくないですし、恥ずかしく無いです。それを笑い者にするのはどうなの?と思うけど。

だから、ダメな結果というのは、存在しないと思うんです。諦めたことは、あるかもしれないけど、ダメだった、は無い。

ただ、ちゃんと自分のやってることを振り返って、考え方や在り方を修正していくことは必要だと思います。

人は、誰でもミスをします。

ヒューマンエラーをゼロには出来ない。だからこそ、間違いを認め、その後どうするかを考えるのが良いと思います。そこから、どんな学びが得られるのかは、あなた次第です。



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